「映画評論」は、1925年(大正14年)宮城県仙台市で産声を上げた。ここは、かつてより知識人の地方分権的存在基盤としての役割を担った旧制二高(現在の東北大学の前身)があり、若いインテリたちが闊歩していたようである。この二高出身で創刊同人の太田国夫によると、「道傍の残雪が闇に浮かぶ仙台一番丁の通りを私は佐々木能理夫さんと歩きながら映画について語った」とあり、その夜に映画同人誌の創刊が決まったという。映画が黎明期から脱却しようというこの時期、若いモダンな映画青年の客気が生んだものだったようである。佐々木の下宿が編集室となり総経費60円で「映画評論」の準備号ともいえる同人誌が出来上がる。
その翌年仙台から東京・池袋に編集部と発行所を移す。
1941年(昭和16年)1月定期刊行物統制令が発布・施行され強制的に廃刊・統合が行われた。それを受けて内務省の要請により日本映画雑誌協会が新設。これにより戦時に生まれた映画雑誌は「映画之友」、「映画評論」、「文化映画」、「季刊・映画研究」、「新映画」、「映画旬報」、「映画技術」の7誌であった。
戦時中の「映画評論」は1944年(昭和19年)、戦前のファン雑誌経営者である高田敏郎の手に渡り、清水晶が編集の任に就いた。敗戦後もこの経営、編集の布陣で続いたが、敗戦直後の昭和20年9月1日付の「映画評論」は物資不足が如実に現れ、表紙なしの折りっぱなし16ページという粗末なものだった。
この頃の、主たる執筆者・同人は南部圭之助、大黒東洋士、松下富士夫、松浦幸三、前田和彦、清水光。それに加えて映画界の森岩雄、新聞界出身の津村秀夫が名を連ねている。やがてアメリカ映画などが公開されてくるにつれて筈見恒夫や双葉十三郎、飯島正、岩崎昶が執筆人に加わる。
再リニューアルされた1950(昭和25年)からの新生「映画評論」(※1)は引き続き経営は高田敏郎が、編集員は鮫島威男、今村三四夫、久世寿、斉藤しげ子、杉田冬子、のちに大沢督太郎が加わった。また、A5版・シナリオつきの「映画評論」は広く新人を募り、登用を心掛けた。